日本橋 にほんばし 日本国道路元標
東京都中央区日本橋1丁目と日本橋室町1丁目を結ぶ、日本橋川に架かる橋。中央通りが通る。慶長8年(1603)徳川家康が征夷大将軍となり、江戸の海岸埋め立て工事や町の整備を始めた頃に創架。五街道の起点となる。明治初期頃までは木橋であった。現在のルネサンス様式のアーチ型石橋は明治44年(1911)に竣工。長さ49m、幅27m。橋の四隅に掲げられている橋名標の「日本橋」「にほんばし」の文字は15台将軍徳川慶喜の揮毫。日本橋の上を横切る首都高は、1964(昭和39)年東京オリンピック前年の昭和38年に開通(呉服橋出入口―京橋出入口区間)。
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【国指定重要文化財 「日本橋」】 平成11年5月13日指定 構造 形式:石造二連アーチ橋 高欄付(青銅製照明灯を含む) 附 東京市道路元標 一基 所有者: |
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![]() ①橋の北側、「日本橋北詰」交差点から見た「日本橋」。橋の下には日本橋川が流れ、橋の上には首都高が通る。 |
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② 橋の中央に 日本国道路元標と記された プレートが 埋め込まれています。 まったく同じ複製の道路元標が 橋の北側にあります。 道の真ん中まで行って 道路元標の写真を撮りたかったのですが 危ないし、なんか恥ずかしかったのでヤメタ。 なのでレプリカのほうの写真を。 ↓ |
③ 元 標 の 広 場 |
![]() 橋の北詰め西側に「元標の広場」があります。 昔は橋の中央に、この東京市道路元標(照明灯型)が立っていました。 (明治22年1889年~昭和18年1943年の間は、現東京23区一帯は東京市でした!) この東京市道路元標は、当時この橋を通っていた東京市電(都電)の架線柱も兼ねていました。 昭和47年(1972)都電の廃止とともに現在のプレート型に変更。 |
プレートの文字は 当時の総理大臣 佐藤栄作の揮毫。 (こちらの 道路元標はレプリカ) |
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④ 首都高にも! 首都高上にあるのは、 元標の広場にある東京市道路元標と同じ形状のものですが、 柱の部分には「道路元標地点」と記されています。 |
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⑤ 橋の4隅にいる獅子像の下に掲げられている 橋名標の「日本橋」「にほんばし」の文字は、 江戸幕府最後の将軍 徳川慶喜の字です! ひらがなのほう、「にほんばし」と書いてあるんだろうけど 「にほんむし」に見える。難しいなあ。 |
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⑥ かつて 日本橋から東の江戸橋との間の北岸に 魚河岸があり、日本橋魚河岸と呼ばれていた。 魚市場が立ち並び、川には魚を積んだ船が 何艘も集まり、 活気あふれる場所だったようです。 1923年(大正12年)に起きた関東大震災後、 この魚市場は築地に移転、築地市場へと発展。 |
⑦ 日 本 橋 外 観 |
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ここにも獅子がいる ・ᴥ ・ そして・・・ 東京大空襲で落とされた 焼夷弾による焦げ跡(橋の西側)。 ほかにもあるらしい。 戦禍をくぐりぬいてきた橋でもある。 |
⑧ 橋 の 4 隅 に 立 つ 青 銅 製 照 明 灯 と 獅 子 像 |
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![]() ⑨ 獅子 狛犬ではありません! 阿吽の呼吸をとっています。 手を掛けているのは東京都の紋章。 当時の東京市の守護と威厳を表現したらしい。 |
←街道沿いには松が植えられ、 一里塚には榎(えのき)が植えられたことから 青銅製の照明灯には松と榎のレリーフが ほどこされている。 |
![]() ⑩橋の欄干中央に麒麟(きりん)! と、いわれるが・・・・。 一見、ドラゴンかと・・・・。 本来、麒麟に羽は無い。 |
![]() ⑪麒麟かー。ん~~、これ、麒麟じゃないよお~! 羽を付けなくても良かったのにー。 なんか付けちゃったんだな~。背中が寂しかったのかな。でも蛇足!! 和洋折衷で日本らしいのかも知れない。 |
⑫ 花 の 広 場 |
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「花の広場」と名される日本橋南詰め西側のこの場所。 かつて江戸期には高札場がありました。 「生類憐みの令」や「目安箱設置」などの高札も ここに立ったらしい。 そしてこの場所の向かい側(南詰め東側)には、 罪人の晒場(さらしば)があったらしい。 現在、交番がある前の辺りの広いスペースがそれかなあ?なんか怖い。 |
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ちなみに大阪の道頓堀川に架かる日本橋は「にっぽんばし」と読みます。江戸の日本橋同様、徳川幕府によって架けられたそうです。