日帰り登山へGO!>番外編>謎多き鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)とその一帯を散策。

常陸國一ノ宮 鹿島神宮 かしまじんぐう
ひたちのくに

(鹿嶋市宮中2306‐1)

【外部リンク】👉地理院地図(鹿島神宮)   グーグルマップ(鹿島神宮)

古くは豊香島宮(とよかしまのみや)・天之大神社(あめのおおかみのやしろ)とも称された。紀元前660年頃の創建と伝わる。かつて「神宮」と名の付く神社は、鹿島神宮・香取神宮・伊勢神宮の3社だけだった。

祭神:武甕槌命(たけみかづちのみこと) (別名、布津大神,建布都神)

鹿島立(かしまだち) 武甕槌命の葦原中国平定の際、または、常陸地方の人が防人として出立する際に鹿島から旅立ったことから、新たな門出や旅立ちのことを鹿島立といった。
防人として出征して、その後、出世した人が多かったのか?藤原氏の祖である藤原(中臣)鎌足は、ここ鹿島で生まれたという言い伝えもある。
大事を起こす前に鹿島神宮にお参りすると縁起良いかも。

【外部リンク】👉常陸国一之宮 鹿島神宮公式サイト


①鹿島神宮参道の大鳥居 (二の鳥居)
大鳥居の外側は石畳の車道 。
近くに有料駐車場多数あり。
少し離れたところに
平日無料の駐車場もあります。

 ②境内側から見た大鳥居。
 この大鳥居の向こう側、
 西南西直線上(レイライン)に
 皇居や富士山、奈良の霊山、徳島の剣山、
 九州の阿蘇山がある。
 昔はここから富士山見えたのかな?
〈現在、富士山は鹿島山公園(鹿島城跡)から見えます〉
(空気の澄んだ視界の利く日に限る)

現在の大鳥居は平成二十六年(2014)に再建されたもので、鹿島神宮境内樹叢の杉の木4本から成っています。それ以前に建っていた笠間市稲田産の花崗岩から成る大鳥居(昭和四十三年(1968)七月に建て替えられたもの)は、2011年の東日本大震災によって倒壊。



上の2つのレイラインの各西端は、古事記の国生み神話に登場する隠岐諸島(隠伎之三子島おきのみつごのしま)、男女群島(両児嶋ふたごのしま)。 中央構造線などの構造線とも絡んでいるから不思議だ。
鹿島神宮レイラインのページ

③大鳥居をくぐったところに境内案内図があります。 この図は昭和の頃のものだろうか?

楼門は保存修理中で、全く外観の様子が分からない状態だったので写真省略。令和八年(2026)5月までの工期だそうです。そして同年9月、式年大祭「御船祭(おふねまつり)」が行われます。


拝殿
東北東―西南西に延びる参道の南側に拝殿が
あります。拝殿はおおよそ北北西を向いています。
大和王権に抵抗した日高見国(蝦夷)にむかって
睨みをきかせているという説がある。

 ⑤拝殿の裏に本殿があり、その背後に御神木
 鏡石があります。御神木は樹高約40m、
 樹齢約1300年という。鏡石は直径80㎝ほどで、
 神宮創祀の場所とも伝わる。
 柵があり本殿の裏に回ることが出来ないので
 鏡石は見れないのですが、受付で申し込むと、
 神社のかたの付き添いで本殿裏の鏡石を
 見れるそうです。

拝殿から本殿にかけての社殿(拝殿・幣殿・石の間附棟札2枚・本殿)は国指定重要文化財になっています。


私たちが拝殿で参拝するとき、南南東に向かって拝むかたちになる。
その方角に線をひいてみると、千葉県旭市の屏風ヶ浦付近から海に出て、その先はただ海(太平洋)があるだけだが、地図をよく見ると伊豆・小笠原海溝、マリアナ海溝とリンクしているようにも見える。さらに南南東へ目を向けるとソロモン諸島やニュージーランドがあった。
その反対、拝殿の向く方角(北北西)には、水戸の偕楽園・常盤神社、那須岳、猪苗代湖、会津若松の鶴ヶ城、飯豊山がある。日本海の先はおおよそロシア沿海地方のテルネイ、ジギトという街の辺り。



⑥拝殿からもう少し先(東)へいったところに
門があります。
上写真③の案内図を見ると、以前は屋根のある門が
あったようです。
ここから奥宮までの参道は奥参道といいます。

 ⑦奥参道は茨城県天然記念物の
 鹿島神宮樹叢(じゅそう)の中の道で、
 とても清々しい。
 参道の幅は約10m(歩いてみたら12歩でした)。
 古代の官道の幅が約10mといいます。
鹿島神宮の樹叢は広大な森となっていて、スギ・シイ・タブ・モミの巨木が生い茂る。

神鹿 奥宮へ行く途中に鹿がいます(鹿園)。鹿嶋の鹿は鹿島神宮の御祭神、武甕槌大神の使いとされています。奈良春日大社の鹿は、鹿嶋の鹿が元祖。 春日大社創建にあたり武甕槌大神の分霊を鹿に乗せ鹿島から奈良へ向かったという。江戸川区の「鹿骨(ししぼね)」「鹿本」という地名も鹿島神宮の鹿を奈良へ連れて行くときに通過したことに由来している。
奈良の自由に行動できる鹿(国天然記念物に指定されている野生の鹿)と違って、鹿島の鹿は柵の中で飼われている。売店が開いていれば鹿のエサ(ニンジン)を売っている(¥100)(持ち込んだエサを与えるのはダメ)。
🦌茨城県では、大正時代に常陸太田市で捕獲された鹿の記録があるのを最後に、野生の鹿は生息しないとされてきたが、2015年頃から野生の鹿の目撃情報が増え始め、特に茨城県北地域で目撃情報が多く、定着し始めているようです。しかも、同じく生息していないとされていた国天然記念物のニホンカモシカも、2019年頃から茨城県北地域で目撃され始め、2024年には日立市の山域で、イノシシ駆除用の罠にかかったカモシカが発見されている。
日本の人口は減少しているが鹿は増えている。あと20年もすれば鹿島の樹叢を野生の鹿が闊歩しているかも。2024年

奥宮 武甕槌命荒魂を祀る。
奥参道を進んでいくと右側に現れます。拝殿同様、北北西を向き、裏には御神木の大杉が立っています。参道入口の大鳥居の辺りから奥宮の前の辺りまで555m。ゾロ目だ!なにか意味があるのだろうか?たまたまなのか?
鹿島神宮レイラインの作図に際して、ここ奥宮と富士山頂最高点を結ぶ直線の延長線をレイラインとしました。

大鯰の碑 奥宮から南南東へ、要石に向かう道中にあります。武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)がナマズの頭を棒のようなもので押さえてこんでいる。

⑪要石の周りは囲いがしてあります。
鳥居も立っています。西に向かって
拝むかたちになり、その方角には、
八ヶ岳赤岳西麓の阿久遺跡(縄文
時代の祭祀場跡。ストーンサークルが
発掘されている)や諏訪大社上社、
その御神体山の守屋山、
中央構造線と糸魚川-静岡
構造線の交差する地点がある。

要石 (かなめいし)
中央に窪みのある直径20cmほどの石が、円形に地面から露出しています。
この石は地中深くゆくに従い大きさを増し、これまた地中深くにいるという
地震をひき起こす大ナマズの頭を押さえているという。
要石は、鹿島の七不思議のうちの一つに数えられている。鹿島の大神が降臨した御座とも、磐座とも伝えられる霊石で、石は掘るに従い大きくなっていき、その果てが分からないという。また、『水戸黄門仁徳録』によると、光圀が家来に掘らせてみたが、七日七夜掘っても掘り切れなかったという。
そんなことから、「氷山の一角」のような状態で大岩が埋まっているのを想像していたのですが、吉田東伍著『大日本地名辞書』(明治36年)には「里人談云、鹿島に一の神石あり、丸く柱のごとくにして、亘り一尺五寸ばかり、頂き少く窪めり、地を出る事二尺余、その根のふかき事、幾丈といふ限しらず、動かせばゆるぐなり、其石の本を箆(へら)にて穿(ほ)れば、虫いづる、其むしの数にて、幾人の子を育てると云ふを占ふと、土俗の説なり。」「地学雑誌云、要石は一見或は転石にあらざる如くなれども、今地上突出する部分に就て考察するに、其形禿頭の円柱にして、高廿二尺計り、円滑の形状、人工に成れることは、疑を容れざるものにして、地生の盤石にあらず、而して其石質は、細粒状黒雲母花崗岩にして、筑波山北に産する建築石材、之に類するもの多し、上古或は該地より茲(ここ)に輸送し、墳塋の標示に用ひしもの歟。」と書かれていた。
なんと、要石は人工のもので円柱の形状、明治の頃には、二尺(約60㎝)余も地面から出ていたという。動かすと揺らぐともある。興味本位で、みんな触っていたのか?当時の地学雑誌は高さが二十二尺(約666㎝)と考察している。
上写真⑩の「大鯰の碑」にあるナマズを押さえている棒が、正に要石の実体形状なのかもしれない。
また、『大日本地名辞書』はこの他に「鹿島志云、要の語源は蟹眼(かにめ)なり、延暦儀式、延喜式蟹眼釘(かにのめくぎ)あり、物の丸き様に名づく。」「詞林采葉抄云、凡我国は、藤根の国と申すとかや、是れ則鹿島明神、金輪際より生出たる御座石(おましのいし)を柱として、藤の根にて日本の国を繋ぎたまふと申す故也。」とも書かれている。
蟹目釘のような石棒と言ったら縄文時代の石棒を思い起こさせる。鹿島の地は、もともとは蝦夷の聖地・祭祀場だったのか?
縄文時代の石棒は、鹿島神宮摂社の坂戸神社(写真㊴)付近からも出土している。

鹿島神宮レイラインが構造線と絡んでいるのが明白な以上、要石には、なにか深い意味が隠されている気がする。中央構造線の東端がココなのか?
この地が日本の要のうちの一つであるに違いない!
(蟹目釘:かにめくぎ。頭を半球状に作った鋲釘(びょうくぎ)。)(金輪際:こんりんざい。地層の最下低のところ。無限に深いという場所。金剛輪際。底の底。)
『水戸黄門仁徳録』宝暦年間(1751‐1764年)  『鹿島志』文政七年(1824年・北条時鄰著)  『詞林采葉抄』貞治五年(1366年)
鹿島の七不思議
要石(写真⑪⑫)・御手洗池の水深(写真⑬)・末無川(写真㉚)・境内三笠山の藤の花(藤原鎌足が植えたという藤の花の咲き具合で豊作、凶作を占ったという。拝殿の東側にあったとされるが、今は無い。)・鹿島灘の海鳴(境内において波の音が北のほうに聞こえれば快晴、南のほうに聞こえる場合は雨が降るという。)・根上がりの松(鹿島山の松は何度伐っても切株から芽が出るので枯れることが無い)・松の箸(鹿島山の松で作った箸は松脂が出ない)

御手洗池(みたらしいけ) 透明度高い。
池に立つ鳥居に支えられた古木も凄い。
(みそぎ)に利用されていた池です。
鹿島の七不思議のうちの一つで、
この池の水深は、大人が入っても子供が入っても
胸の高さまでしかないという。

湧水口
 御手洗池に接する
 斜面の際(きわ)から
 流れ出る。
 40万ℓ以上/日
 凄い量だ!
⑮池にはザリガニがいた。
中世の頃までは、宮下川という川を利用して大船津からこの御手洗池付近まで船で入って来れたといいます。

道路衢神社(どうろくじんじゃ) 鹿嶋市字三笠山という地区にある神社。三笠山道路衢神社とも言う。祭神は猿田彦大神。武甕槌神が明石海岸(東の一之鳥居)にたどり着いた時、猿田彦大神が三笠山・鹿島山への道案内をしたという。
小さな社ですが、勢いのある大きな古木数本に囲まれたこの神社は歴史の古さを感じさせます。
奈良の三笠山(御笠山、御蓋山)の元が、鹿島の三笠山という説もある。
要石のある場所から南東に延びる小道を進み、鹿島神宮の樹叢を抜け出たところに道路衢神社はあります。
グーグルマップ
道路衢神社を囲む古木の樹勢が凄い!


護国院 正式には降魔山護国院経音寺(こうまさんごこくいんきょうおんじ)と称す。和銅二年(709)創建の古刹。初めは鹿島神宮境内にあったが、延宝五年(1677)神宮寺とともに現在の地に移る。神宮寺は文久三年(1863)火災によって焼失、廃寺。護国院の伽藍は明治三年(1870)の火災により焼失。
ほぼ鹿島神宮-富士山レイライン上にある。
(鹿嶋市宮中2丁目6‐13)グーグルマップ


鹿島城山公園鹿島城跡) 別称、吉岡城。常陸大掾(ひたちだいじょう)氏の一族、鹿島氏の居城地、本丸跡。
北浦を見下ろす展望の良い広場(公園)となっています。東屋・トイレ・駐車場あり。
グーグルマップ
⑳薄っすらと富士山見えた!


鎌足神社(かまたりじんじゃ) かつては大職冠神社、大職冠鎌足社とも呼ばれた。中臣鎌足(藤原鎌足)の生誕地と伝わる。また、鎌足の屋敷跡ともいう。
神社には2本の鎌が納められており、それが御神体らしい。
鳥居の前には「行幸記念 昭和四年十一月」と刻まれた碑が立つ。
奈良県明日香村の大原神社も鎌足生誕地と伝わり、同県大和郡山市には大職冠鎌足神社もある。
鎌足生誕地は奈良のほうが知られているが、鹿島の説もあなどれない。
鎌足は鹿島の神主中臣鹿島連の出と言われ、その祖先神である天児屋根命を祀る坂戸神社が鹿島神宮域内にある(写真㊱)。
鎌足神社は鹿島神宮-富士山レイラインに近い。
(鹿嶋市宮中3354)グーグルマップ
飛鳥時代の645年、中大兄皇子・中臣鎌足らによる蘇我入鹿暗殺「乙巳の変(いっしのへん)」で始まる大化の改新。
2025年は「乙巳」の年だ!大革命は起きるのか?何か起きそうな雰囲気ではある。ちなみに2025年(令和7)の吉方位は西南西らしく、鹿島神宮-富士山レイラインとほぼ同じ方角だ!

根本寺 山号は瑞甕山(ずいようさん)。御本尊は薬師如来。613年、推古天皇の勅命により聖徳太子が創建、高麗僧恵灌(えいかん)が開山と伝わり、日本最古の寺の一つという。 貞享四年(1687)松尾芭蕉が訪れている。
かつては七堂伽藍を持つ大寺院だったが、元治元年(1864)水戸天狗党に破壊され、現在の建物は明治期に再建されたもの。
寺の背後の山は甕山(みかやま)と呼ばれる。
鹿島神宮-富士山レイライン上にある。
(鹿嶋市宮中2682)グーグルマップ
鎌足神社から歩いて1,2分のところにあります。
 (かめ・もたい・みか) 液体(酒や水)を入れる底の深い器。
武甕槌命・甕山・三笠山にある「ミカ」という言葉が気になる・・・。

神宮橋西の一之鳥居(神宮橋の西側=潮来市洲崎側から見た西の一之鳥居)
北浦(鰐川わにがわ)に立つ水上鳥居です。 鎌倉時代、僧の忍性(にんしょう)が立てたのが最初という。現在の西の一之鳥居は2013年に再建されたもので、水上鳥居としては日本最大級(高さ18.5m、幅22.5m)。
鹿島神宮-富士山レイラインに近い。
正式には神宮橋から南側は鰐川という河川になる。神宮橋の北側が北浦。)

大船津側から見た西の一之鳥居 かつては鹿島神宮参拝者の船着き場でもあり、当時この辺りは賑わっていたらしい。
(鹿嶋市大船津2251沖)グーグルマップ

跡宮  鹿島神宮の摂社。武甕槌命を祀る。『春日権現験記』によると武甕槌命は陸奥国塩竈浦に天下った後、跡宮から鹿島に移ったとしている。
また、奈良春日大社へ御分霊の際はここから鹿島立ちをしたとも伝わる。
跡宮は鹿島神宮の南南東約1.5㎞の地点にあります。
(鹿嶋市神野4丁目1‐12) グーグルマップ

東の一之鳥居  鹿島の大神=武甕槌命(たけみかづちのみこと)が出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)と国譲りの交渉を終えた後、東国に入り降臨された場所と伝わる。
(鹿嶋市明石676) グーグルマップ

㉗東の一之鳥居の浜辺(明石の浜)はこんな感じです。鹿島灘。南方遠くに風力発電の風車群が見える。

鶴駕山神向寺 東の一の鳥居から陸へ入って行くと神向寺がある。
聖徳太子が 父である用明天皇の勅願により創建したと伝わる。当初は海岸寄りの鶴居川付近にあり、香島山仁多寺(にんたじ)と称したという。 鎌倉時代に鹿島神宮の鬼門除けとして現在の場所に移転し、神に向かう寺「神向寺」と改称。その後2度火災に遭い焼失。現在の建物は宝暦九年(1759)に再建されたもので、このとき鹿島神宮境内の古い楼門を譲り受け寺の山門とした。
(鹿嶋市神向寺128)グーグルマップ
(鶴居川は現在ありません。神向寺の東の辺りから、東の一之鳥居付近に流れていたようです。)

下津海岸(おりつかいがん) 鹿島灘。
下津という名称からして、古くはここも船着き場だったのだろうか。鹿島神宮から最短距離で海に出られる場所。鹿島神宮-富士山レイラインの東端はこの辺りだ。
駐車場・トイレあり。海水浴シーズンは混むかも知れない。
グーグルマップ
㉚東の一之鳥居からよりも風力発電所は近い。

この風車群は筑波山山頂からも見える(双眼鏡、または望遠レンズで)。
日帰り登山へGO!筑波山のページ



㉛下津海岸から高天原へ向かう。 道を真っすぐ内陸へと進んで行く。
写真の中央やや左の最奥辺りが高天原。

二十三夜尊 (にじゅうさんやそん)  下津海岸から高天原へ行く途中にあります。二十三夜尊とは、月齢23日の夜にお供え物をし、月が出るのを待ちながら宴会をするという「月待ち信仰」らしい。明治の頃に広まった庶民信仰のようです。鳥居の奥に寛政十二年の供養塔が祀られているのみ。お供え物がまだ新しい感じだったので、23日の夜に月見をしたのかな?
この裏手に「末無川」の痕跡がある。

末無川(すえなしがわ) 鹿島の七不思議のうちの一つ。高天原からの湧き水がここで小さな池となって溜まり、その先数メートル流れてから地中に吸い込まれ、水の流れ行く末が分からないということから「末無川」と呼ばれたようです。
周辺は宅地開発が進み、昭和後期では沼地化した状態だったらしいが、現在は雑草の生い茂る窪地の中に、小川が流れていたであろう痕跡が残っているという状態で、水は皆無。雨が降り続いた後などは少しは水が溜まるのかな。
高天原の林の北端に位置する。上写真の、林の際(きわ)の辺りから水が湧き出ていたのかな。

高天原 (たかまがはら) 古くは高間原とも記された。武甕槌命(たけみかづちのみこと)が国見をした場所という。また、戦国時代の1522年、鹿島氏の内乱「高天原の合戦」において、塚原卜伝の師、松本備前守政信が戦死の古戦場跡ともいう。
近世までは神山とされ、汚してはならない地であったようです。
現在の高天原はほとんどが宅地や会社の寮となっていますが、この一画だけ林として残っている(林の一帯は、住所的には鹿嶋市下津となっています)。
鳥居の形をした説明板「高天原と鬼塚」が立っている所から中へ入って行くと鬼塚があります。
(下津海岸から高天原の説明板のところまで約1㎞)
グーグルマップ

鬼塚   高天原の林の中に入って行くと現れる。小高い塚です。木々が欝蒼と生い茂り展望は無い。塚の手前は祭壇のようになっていて、この上は立入禁止のような感じなので上へは登らず。
ここは鹿島の大神が東征の折、反抗する鬼たちを退治し、その鬼の首を埋めた場所と伝わる。鬼とは大和王権に抵抗する日高見国?蝦夷?の先住民のことか?
合掌。
この辺りは鹿島神宮-富士山レイライン上でもある。
㊱高天原の辺りから下津方面に海を望む。
昔は広く見渡せたんだろうな。


塩釜神社(しおがまじんじゃ)
塩輸送の峠神、塩土翁命(しおつちのおきなのみこと)を祀る。鹿島では縄文時代から塩作りが行われていたようです。
(鹿嶋市田野辺196)グーグルマップ

沼尾神社(ぬまおじんじゃ)
鹿島神宮の摂社。祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)。経津主命は香取神宮の祭神だ。鹿島神宮境内附郡家跡(かしまじんぐうけいだいつけたりぐうけあと)として国指定史跡となっている。
欝蒼とした林の中にひっそりと鎮座。社殿の裏手に回ると急な下り斜面があり、この場所が丘陵の上だというのが確認できるが、木々が生い茂り展望は無い。説明板によると、かつては社殿の裏から香取神宮の森が望めたようです。
(鹿嶋市沼尾1298)グーグルマップ

坂戸神社(さかどじんじゃ)
鹿島神宮の摂社。祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)で、藤原氏(中臣氏)の祖先神だ。こちらの神社も鹿島神宮境内附郡家跡(かしまじんぐうけいだいつけたりぐうけあと)として国指定史跡となっている。
沼尾神社の南方約 1.5㎞、鹿島神宮の北方約2㎞の地点、欝蒼とした林の中にひっそりと鎮座。
(鹿嶋市山之上228)グーグルマップ

『常陸国風土記』(和銅六年(713)の詔により養老年間(717‐724)頃に完成)には、天の大神の社(鹿島神宮)・坂戸の社(坂戸神社)・沼尾の社(沼尾神社)の3社を合わせて「香島の天の大神」と記される。



夫婦塚古墳(めおとづかこふん) 前方後円墳。広めの駐車場、バイオトイレ、東屋があります。
(鹿嶋市須賀1244‐15)グーグルマップ
鹿島には、この他にもたくさんの古墳があります。

鹿島神宮レイライン
〈鹿島神宮-皇居-富士山-四国の剣山-九州の阿蘇山-国生み神話の両児之島と言われる男女群島〉のレイライン

〈鹿島神宮-赤岳-諏訪大社上社御神体の守屋山-(諏訪大社上社・諏訪湖)-福井県の玉川観音(越前岬)-国生み神話の隠岐の三つ子の島と言われる隠岐諸島〉のレイライン


日帰り登山へGO!