日帰り登山へGO! 番外編 大宮 氷川神社レイライン 意外とスゴイ!構造線と八咫烏!2⃣氷川神社探索
氷川神社レイライン2⃣
武蔵國一之宮氷川神社探索
![]() ①参道入口 一の鳥居 「是より宮まで十八丁」と刻まれた丁石 ここから (一丁=約109mなのですが当参道の丁石は正確に約109mごとには設置されてないようだ。 丁石の置かれる間隔を歩数でざっくりと計ってみると、1丁から13丁までの各丁石の間隔より 14丁から18丁までの各間隔は短かった。) 日本一長い参道の入口です。 江戸時代の初期頃、参道の一部は中山道としても利用されていた。 [氷川神社まで2000m/さいたま新都心駅まで450m]の指導標あり。 ちょうどこの辺りを出雲大社-鹿島神宮レイラインが横切っている。 出雲大社(出雲国一之宮)本殿と鹿島神宮(常陸国一之宮)本殿をつないだ線上に この場所があります。 氷川三社のうちの中山神社の参道鳥居も、出雲大社-鹿島神宮レイライン上にあります。 なんと、この参道入口から横浜(山下公園前)に 係留保存されている氷川丸の舳先までぴったり50.00㎞! ちゃんと計算してあそこに置いたんだな。 |
↑クリックで拡大します↑ 氷川神社レイライン中心部 武藏国一之宮 氷川神社 ~中山神社(中氷川神社) ~武蔵国一之宮 氷川女體神社 他、 出雲大社-大生神社ライン、 熊野大社-大生神社ライン、 出雲大社-鹿島神宮ライン、 富士宝永山-筑波山ライン レイライン付近の神社・遺跡。 |
![]() ②参道入口にある武藏國一宮の碑。 正面「武藏國一宮 氷川大明神 佐々木文山書」 (「武藏」の「藏」〈草冠は十十〉は「蔵」の正字)(かつては「佐々木文山書」と彫られた右側に「本地正観音」と彫られていたが、明治の神仏分離・廃仏毀釈により削られている。が、よく見るとかすかにその文字が見える) 裏「官幣大社 冰川神社」 (「冰川」の「冰」は「氷」の正字)(「官幣大社」の「社」、「神社」の「神」と「社」の漢字には余計な「、」が付いている。これは捨て筆、補空、咎無し点などと呼ばれる、字のバランスを補うためのもの)(明治末~大正時代の頃の参道入口を撮った写真を見ると、「冰川神社」と彫られたほうが正面になっている) 右横「是より宮迄十八町 裏大門すぐ道あり」 左横「享保七壬寅天二月吉祥日 同郡 施主 氏子中」(享保七年=1722年 みずのえとら 江戸幕府8代将軍 徳川吉宗の時代) 石工は江戸の加藤佐次兵衛 台石にはなんと!おびただしい数の盃状穴! (盃状穴:はいじょうけつ:岩石や石造物に人為的に穿たれた、盃状の、アリジゴクの巣のような穴。誰が何のためにあけた穴なのか、どうやって作ったのか明確には分かっていない。古いものでは縄文時代のものがみられ、昭和に入ってから作られたと思われるものもあるようだ。また、同様の穴が世界中で確認されている。) 見ようによってはARTだ。 |
![]() ③常夜燈の台石にも盃状穴! 武蔵國一宮碑の後ろにある常夜燈の台石にも盃状穴が穿たれていた。 こちらは台石の側面にも穴が穿たれていて、盃状穴の形になっていない欠けも多い。 盃状穴の形になっていない欠けも、よく観察すると不思議な欠けかたをしている。 盃状穴の製作途中のものなのか? 全く意味不明である。 ちなみに、参道に向かって右側にある、対になっているもう一つの石灯篭のほうには盃状穴や欠けは全く無い。 不思議。 熊野信仰・八咫烏と何か関係があるのだろうか?縄文時代のアニミズムと繋がる信仰なのか? (なお、この先、参道や神社境内・周辺では盃状穴は |
![]() ④「一丁」丁石 参道沿に設置された全ての丁石は平成元年(1989)九月に再奉納されたものです。 江戸期の丁石は、氷川神社・さいたま市立博物館に保管されています。 (「宝暦十四甲申歳(1764)二月吉祥日」銘の「拾丁」丁石がさいたま市立博物館に展示されていました。 なんと!その丁石には盃状穴が穿たれていた!)(下写真⑥) |
参道はケヤキを主にした並木道で約2㎞続く。他にも様々な樹木が植えられている。
(参道の樹木は江戸期は主に松の木、大正から昭和初期頃の参道並木は杉、のち、昭和九年の室戸台風による倒木、戦時中の伐採、車の排気ガス等による枯れのため、以後はケヤキに植え替えられ、現在はケヤキを主に総数約650本もの樹木が参道に並ぶ。季節ごとに変わる参道風景を見に訪れる人も多い。)
![]() ⑤「九丁」丁石 長い参道の中間地点の丁石。大宮小学校の東門前にあります。 |
![]() ⑥「拾丁(十丁)」丁石 「拾丁」「氷川大明神」「宝暦十四甲申歳二月吉祥日 大宮中町 小嶋權左衛門 同 平八」と陰刻。 (宝暦十四年=1764年 10代将軍 徳川家治の頃) さいたま市立博物館に展示保管されています。 昭和六十二年(1987)氷川地区整備事業の際、参道交番の裏の辺りから掘り出されたものです。 (現在、現場には平成元年(1989)に再奉納された丁石が設置されています) 発見!かなり風化してますが、盃状穴が穿たれていた! 👉 さいたま市立博物館(さいたま市公式サイト)(神社参道のニノ鳥居の東約80mにあります。無料です!) |
![]() ⑦「十四丁」丁石 氷川神社の碑と二の鳥居の間、参道右側(東側)にあります。 県道2号(さいたま春日部線)「氷川神社入口」信号と二の鳥居の間 なんと!「十四丁」丁石から拝殿まで666m。 |
![]() ⑧二の鳥居 右側の写真は大正時代の頃の二の鳥居(石鳥居)(参道にあった案内板より) 現在の二の鳥居は、元は明治神宮に建っていた鳥居で、昭和51年(1976)に移築されたもの。台湾・阿里山(アーリーシャン)の樹齢約1200年以上とされる檜でできている。 それまで建っていた上右写真の石造の二の鳥居は、大宮公園口に移築された。(下写真㉟) なんと!ニノ鳥居から本殿奥までの距離、666m!(参道の中央を通るかたちで測る) 鳥居の前には狛犬がいます。 氷川神社の狛犬☞ 日帰り登山へGO!埼玉県の狛犬のページ この鳥居の右(東)へ80mほど行ったところにさいたま市立博物館があります。(無料) 👉 さいたま市立博物館(さいたま市公式サイト)【外部リンク】 |
![]() ⑨「十八丁」丁石 最後の丁石なので三の鳥居の足元付近にあると思いきや、三の鳥居のけっこう手前にありました。 大きな切株のそばにあります。 でも、この場所は「是より宮まで十八丁」丁石からおおよそ1837mの地点。距離が合わない。(一丁は約109mなので、18丁×約109m=約1962m) 本来はもっと三の鳥居のそばに置かれていたのか・・・?(「是より宮まで十八丁」丁石から1962m地点は三の鳥居をくぐった先、ちょうど参道が左へカーブする辺り) どうやらこの参道の丁石は一丁=約109mの間隔で置かれていないようだ。 丁石の置かれる間隔を歩数でざっくりと計ってみたら、1丁から13丁までの丁石の間隔より14丁から18丁までの丁石の間隔は短かった。真っすぐな参道なので、正確に丁石を置くことが出来たと思うのだが・・・。何かのまじないか? 正確さを要さないなら、なぜ「十八丁」丁石を三の鳥居の足元に置かず、この中途半端な場所に置いたのだろう?謎だ。 (三の鳥居の先の、参道が左へカーブし始める地点が、一丁=約109m換算での十八丁地点なので、参道入口からの参道の直線区間を十八丁ぴったりとなるように、ちゃんと計算して参道を引いているのがわかる。) |
![]() ⑩三の鳥居 昭和九年(1934)に奉献された鳥居 参道入口からここまで真っすぐの参道ですが、鳥居をくぐった先は左へカーブしている。 三の鳥居の手前左側にゆうすいてらす(休憩所)があります(下写真㉞) |
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⑪氷川神社境内とその周辺 かつては大宮公園も合わせた一帯が、氷川神社境内。 今から6000年くらい前・縄文海進時は、神社の近くまで海が入り込んでいた。 本殿の裏の辺りは縄文時代の住居だった(氷川神社遺跡)。 NUCK5スタジアムの南にある「土器の館」で、縄文土器を展示。 |
氷川神社レイライン(太い赤線)と熊野大社-大生神社レイライン(細い赤線)、富士山-筑波山ライン(青い線)が交差する。
富士山と筑波山を結ぶ線(正確には富士山側火山の宝永山頂と筑波山頂を結んだ線)は、ひょうたん池と白鳥池の間にある道を通る(下写真㉟)
![]() ⑫神橋の上から 神池に浮かぶ宗像神社を望む。 池には亀や鴨、鯉などがいる。 時々カワセミもいる。 |
![]() ⑬神池に架かる神橋 (神池は見沼=御沼の名残りという) |
神池・神橋・宗像神社、この辺りを熊野大社-大生神社レイラインと富士山-筑波山ラインが通っている。
熊野大社(島根県松江市)は出雲大社と並ぶ出雲国一ノ宮で、紀伊の熊野三社よりも古いと言われ、。大生神社(茨城県潮来市)は古代の意富(おふ)氏の奉斎社と伝わる神社で、常陸国一ノ宮である鹿島の本宮とも言われてる古社。
☞ 大生神社のページ(日帰り登山へGO!縄文石棒編)
![]() ⑭手水 |
![]() ⑮立派な楼門 (三の鳥居から144m) |
![]() ⑯楼門をくぐりぬけると 正面に舞殿 (その奥に拝殿) |
![]() ⑰舞殿と拝殿 |
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⑱舞殿の中 床がピカピカだ! 美しい! |
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⑲ 拝殿 (楼門から50m) |
![]() ⑳拝殿の右側に廻って 氷川神社レイライン上に立ってみる。 氷川女體神社本殿から当神社本殿まで6.66㎞! ちょうどこの写真の方向には 御嶽山(金鑚神社(武蔵国二ノ宮))・ 碓氷峠・熊野皇大神社・浅間山・ 皆神山等々がある! また、この場所には 明治天皇陛下大嘗會御饌埋納地がある。 (同じく氷川神社レイライン上にある 碓氷峠の碓氷川水源地の水は明治天皇御巡幸の 際の御膳水となっている) |
![]() ㉑「明治天皇陛下大嘗會御饌埋納地」 (裏:「明治廿二年九月 石工中村金五郎寄附建設」) と刻まれた碑がレイライン上に立っている。 「饌」とは、ごはん・お膳立てした食べ物・ ごちそう・お供え物の意。 埋納地とあるから、ここに埋めたのだろう。 明治天皇が埋めたのだろうか? 不思議な儀式だ。 地面に正方形の4つの石が 四角く配置されているのは何だろう? |
氷川神社遺跡 本殿の裏の辺りは本殿を中心として馬蹄形に小高く盛り上がる部分がある(立ち入ることはできない)。そこは縄文後期から晩期(約4500年~2400年くらい前)にかけての住居跡だったことが分かっている(平成24年(2012)の社務所建設に伴う発掘調査による)。
氷川神社の元は縄文人の祭祀場だったに違いない!
(発掘された遺物は博物館に展示されています)
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㉒ 号鼓 |
太鼓の鳴る時間
春秋期(3・4・9・10月)開門5時30分 閉門17時30分
夏期(5・6・7・8月)開門5時 閉門18時
冬季(11・12・1・2月)開門6時 閉門17時
![]() ㉓東門を出たところに 門客人神社(摂社)と 御嶽神社(末社)が並んで鎮座。 2つの社殿はそれぞれ さいたま市の有形文化財に指定されている。 |
![]() ㉔門客人神社 (もんきゃくじんじんじゃ) 「かどまろうどじんじゃ」とも呼ばれる。 元は荒脛巾神社(あらはばきじんじゃ)だったらしい。 アラハバキ神は土着の神様・縄文の神様とも言われる。 ここを氷川神社レイラインが通っている。 両社殿前にはひょうたん池がある。 |
| 門客人神社と御嶽神社の社殿の向きが なぜか氷川神社の社殿の向き(境内の建物の向き)と微妙にずれているのは何故だろう。 ![]() 氷川神社の社殿の向きは赤城山の方に向かって建ち、門客人神社と御嶽神社の社殿は奥白根山(日光白根山)の方に向かって建っている。 何か意味があるのだろうか? |
![]() ㉕御神水 (飲めます) 楼門を出て、 手水の後ろの辺りにあります。 地下水なので夏は冷たく、 冬はほんのりあたたかい。 |
![]() ㉖水鉢 龍の姿がが陽刻されていて 水は静かにしたたっている。 水面は鏡のようだ。 手水と蛇の池入口の間にあります |
![]() ㉗御神井 手水と蛇の池入口の間にあります。 (中を覗いたら地下水をくみ上げるポンプの機械があった) |
![]() ㉘蛇の池 (じゃのいけ) 樹叢の中にある蛇の池は神聖な雰囲気が漂う。 池の奥から水が流れ出ている。今はポンプで地下水を汲み上げていると思われるが、昔は自然湧出していたのだろう。 この場所は縄文時代から貴重な水源地として祀られていたと思われる。(水神信仰=蛇神信仰=龍蛇信仰) 縄文海進が終わり海水面が退いて神社周辺が沼となったとき、この水が沼へと流れこんでいたので沼は「御沼(みぬま=神の沼)」と呼ばれ、現在の氷川神社東方に「見沼」として地名が残っている。 もしかして「みぬま」の「み」は「巳(み)」(=へび)でもあるのかも・・・。 池には錦鯉がいた。色鮮やかなカワセミもいたのですが薄暗いところに止まったのでピンボケで写真にはうまく撮れていなかった。 蛇の池の水は神池へと流れていく。 |
![]() ㉙蛇の池には神饌所の裏の方からも小川のような感じで池へと水が流れこんで来ているのですが、水源は見えない。 (立入禁止区域の方から流れてきている。氷川神社遺跡の辺りが水源?氷川神社レイライン上に水源がありそうな気もする。) この小川は以前は無かった。コロナ以降に新しく作られたようだ。 |
![]() ㉚蛇の池の近くにも湧水地があり(地下水をポンプで汲み上げていると思われる)、小さな池を経て蛇の池から流れ出る小川と合流し、神池へと流れ込んでいる。 |
![]() ㉛神池に浮かぶ島に宗像神社 (摂社) |
宗 像 神 社 |
![]() ㉜宗像神社の裏に回ると蛇の巣穴があります。 ホントに蛇が居るらしい。 蛇穴も蛇の通り道も、ちゃんと確保された作りになっている。 よくお参りに来ているという人が言うには霊験あらたからしい! (所々で写真を撮っていたら話しかけられ、いろいろと教えてくれた) この辺りは筑波山頂と富士山側火山の宝永山頂を結ぶラインと 熊野大社-大生神社を結ぶラインが交わる地点(写真⑪参考)。 霊験があるという話も納得できる! |
蛇 の 巣 穴 |
![]() ㉝神池の南西端側の角からも水が流れ落ちている。 おおよそ、この方角に富士山(宝永山頂)がある! 池の外側(稲荷神社・宗像神社側の氷川神社境内入口)には、白い鳥居が立っている。 (この白い鳥居はまだ新しく、令和七年(2025)十一月に奉納されたもの) 裏参道を通ってきた場合は、この白い鳥居をくぐって境内に入ります。(下写真㊵) |
![]() ㉞三の鳥居の外側にある休憩施設「ゆうすいてらす」。 (2024年11月8日竣工の、まだ新しい休憩施設。裏にあるトイレもキレイ。) ゆうすいてらすの前にも小さい池がある。 氷川神社境内とその周辺には池が多数あり、手水は2ヶ所、水鉢もあった。 全ての水場は流れがあり、滞っていない。 縄文の頃の水神信仰(蛇神信仰もしくは龍神信仰)を引き継いでいると思われる。 (舟遊池の北側にはプールもある!) |
![]() ㉟御嶽神社側にある門。氷川女體神社、中山神社と直線でつながる氷川神社レイラインは、白鳥池・ひょうたん池・門客人神社の辺りを通って本殿へ向かう。 門客人神社・御嶽神社への入口にあたるところにある白い石柱は、元は二の鳥居として大正元年(1912)~昭和51年(1976)まで参道に建っていた石鳥居。昭和51年、明治神宮に建っていた鳥居が氷川神社参道の二の鳥居(上写真⑧)として移築されるのに伴い入れ替わるかたちで、大正時代から建っていた二の鳥居(石鳥居)はここに移築された。平成23年(2011)東日本大震災でこの石鳥居は損壊し、現在はその柱の部分だけ残され立っている。 (この石鳥居は、ここに移築されてから震災で損壊するまで、白鳥池とひょうたん池の間の、楼門へ向かう道に建っていた。この道は筑波山頂と富士山側火山の宝永山頂を結ぶ線と重なる。) ☞筑波山頂から見た富士山と氷川神社の位置(日帰り登山へGO!筑波山のページ) |
![]() ㊱門客人神社・御嶽神社への門(白い石柱)を入ったところの右側に、壊れた石灯籠やその台石などがまとめて置いてあるのですが、その中に盃状穴のある石灯籠台石がありました! さいたま市立博物館にあった江戸時代の「拾丁」丁石からして、昔はもっといろんなところの石造物に盃状穴が穿たれていたのかも知れない。 それらは処分されてしまったのか?どこかに保存してあるのか? それにしても何故、盃状穴についての明確な情報が無いのか? 不・思・議。 |
![]() ㊲白鳥池 神社側から見た白鳥池 この池も見沼の名残り。縄文海進の頃は奥東京湾の海岸だろうか? 奥東京湾は浅く穏やかな海だったという。 氷川神社の拝殿から門客人神社・御嶽神社を通って白鳥池まで来ると、高低差が分かる。 ちょうどこの写真の方向に、氷川三社のうちの中山神社と氷川女體神社が鎮座している。 氷川神社本殿から氷川女體神社本殿までの距離がなんと!6.66㎞という不思議。 その先、氷川神社レイラインの南東端は九十九里の片貝海岸(紀州熊野とゆかりのある地)。 (縄文海進の頃は東金市のJR東金線の辺りまで海) (この写真の方向へ約200m行ったところに土器の館があります。(無料) NACK5スタジアムの南西側 ) 👉 土器の館(さいたま市公式サイト)【外部リンク】 狭いスペースだが、さいたま市出土の縄文遺物がずらっと並ぶ! |
![]() ㊳日本庭園の池 白鳥池の向かい(北側=公園側)にあります。 |
![]() ㊴水準点 標高15.1m 昭和五年(1930)に設置された水準点 正面は「一等水準點」、反対側は「基三六号甲」と刻まれている。 (氷川神社の北側、神社の外にあります。大宮公園内。上写真⑪参照) |
![]() ㊵氷川神社の裏(北西)側に廻って裏参道通りに出る。 氷川神社の西駐車場出入口の辺り。 ちょうどこの辺りを氷川神社レイラインが通っている。 (氷川女體神社、中山神社、氷川神社を結ぶ直線のレイラインは、氷川神社本殿を通ったあと、この辺りから神社境内を抜け出て真っすぐ北西方面、碓氷峠へと向かう。) 裏参道通り(車道)を南南西へ少し進むと、裏参道の赤鳥居があります。 |
![]() ㊶裏参道の赤鳥居 「武藏國一宮」の碑も立っています。 正面「武藏國一宮 是より宮二町 裏大門鳥居ヘ出ル」 右横「享保七壬寅年二月吉祥日」(享保七年=1722年 みずのえとら 江戸幕府8代将軍 徳川吉宗の時代) 左横「願主 天沼村 ??? 宥寛 金龜山 観音寺 ??」 ここは熊野大社-大生神社ラインと絡んでいるように思われる場所。 裏参道は神池の南西側にある白い鳥居(写真㉝)から境内に入ります。 |
氷川神社レイラインは龍脈か? ☞ 氷川神社レイライン1⃣のページ
氷川神社レイラインの北西延長線上にある碓氷峠には碓氷川水源があり、まさに、この「碓氷川」という字の中に「氷川」という字が入っている不思議。
碓氷川水源の水は明治天皇御巡幸の際、碓氷峠越えの際の御膳水にもなっている。
また、碓氷峠にはヤタガラスの熊野皇大神社が鎮座!
もちろん明治天皇御巡幸の碓氷峠越えの際にはヤタガラスが先導したと思われる。
明治天皇は碓氷峠で何か儀式を行ったのだろうか?
氷川神社は太古の昔、縄文時代からの水神信仰を引き継いでいると思われるのだが、それには出雲・熊野のヤタガラスが関与していると思われる。
氷川神社レイラインは氷川神社から見て冬至の日の出、夏至の日の入りの方角にひかれた線だが、中央構造線をほのめかしているような部分もあり、また、ライン全体ではフォッサマグナを斜めに分割しているようにも見える。
太陽の動きと大地(地殻)や地球内部マントルの動きはどのように関連しているのだろうか?
このレイラインの地面の下でうごめいている地球の動きを龍脈として縄文の祭祀者は感じとっていたのだろうか?
はたまた、碓氷峠から氷川神社まで通じる地下水脈の層でもあるのだろうか?それを龍脈としているのだろうか?
はたしてヤタガラスはこの龍脈をどのように活用しているのだろう?何を知り、どんな呪術をかけているのか?
日本の国土は隈なく呪術(結界)が張り巡らされている感がしてならない。
誰のための何に対してのものなのか?
![]() ㊷周遊池 こちらの池も見沼の名残り。縄文海進の頃はここまで海が入り込んでいた。 大宮公園内遺跡はこの舟遊池の北畔付近にある。 ☞縄文海進の頃の舟遊池(氷川神社レイライン1⃣のページ) |
![]() ㊸大宮公園内遺跡 埼玉県立歴史と民俗の博物館の敷地内にあります。 縄文時代、弥生時代の住居跡が発見されている。 弥生時代の住居跡と復元住居、方形周溝墓が展示されている。 (博物館の外に展示されているので、この遺跡だけなら無料で見ることが出来ます) 👉 埼玉県立歴史と民俗の博物館公式ホームページ【外部リンク】 |
氷川神社の現境内地は約3万坪。明治時代初期までは現大宮公園を含む約9万坪もの広大な範囲が氷川神社境内地。
この広大な境内地はかつて縄文人が定住生活をしていた地域だ。
明治十七年(1884)境内の一部が埼玉県に寄贈され大宮公園となる。
![]() ㊹寿能泥炭層遺跡(じゅのうでいたんそういせき)はこの辺りか? 大宮第二公園内にある縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡。 縄文海進の頃は海中に没しているが、海が退いた後は泥炭層の堆積する低湿地となる。 寿能遺跡の看板や案内図、説明板は設置されていないので明確な場所が分からず。 たぶんこの辺り。 (氷川神社の東約1㎞) |
【外部リンク】
👉 武蔵一宮氷川神社公式サイト 👉 大宮公園(埼玉県公式サイト)
👉 埼玉県立歴史と民俗の博物館公式ホームページ(大宮公園の北側にあります)
👉 さいたま市立博物館(さいたま市公式サイト)(神社参道のニノ鳥居東側にあります)
👉 土器の館(さいたま市公式サイト)(大宮公園の南側、NACK5スタジアムの南西側にあります。大宮公園の外側です。)
👉 さいたま市立浦和博物館(さいたま市公式サイト)(中山神社と氷川女體神社の間の辺りにあります)
👉 馬場小室山遺跡(さいたま市公式サイト)(縄文時代早期から晩期の遺跡)