日帰り登山へGO! 番外編 大宮 氷川神社レイライン 意外とスゴイかも。構造線と八咫烏!


氷川神社レイライン
ひかわじんじゃ れいらいん

(地理院地図で検証)

武蔵國一之宮

氷川神社・中山神社・氷川女體神社(ひかわにょたいじんじゃ)は、一本の直線で繋がる。
このラインは冬至の頃の日の出夏至の頃の日の入の線とされる。

かつては、氷川神社(男体社)・中山神社(簸王子社ひおうじしゃ)・氷川女體神社(女体社)の三社を合わせて氷川大明神とも称された。
これは熊野修験が関係しているとも言われる。

また、氷川神社の「氷川」は出雲(島根県)の「斐伊川(ひいかわ)」から来ていると言われ(「斐伊川」はかつて「簸川(ひかわ)」「肥川(ひのかわ・ひかわ)」とも記された)、武蔵国造と出雲国造は同族であり、氷川神社も出雲から来た一族と関係が深いという。

出雲大社(杵築大社)との関係もさることながら、同じく出雲の熊野大社、紀州(和歌山県)の熊野三社(熊野坐神社・熊野速玉神社・熊野不須美)との関係も興味深い。


氷川神社レイライン 中心部
 クリックで拡大します
武藏国一之宮 氷川神社~中山神社(中氷川神社)~氷川女體神社

氷川神社本殿から氷川女體神社本殿までの距離が、
なんと! 6.66km ピッタリ! (地理院地図のツールで計測)

でた! 666
悪魔(獣ケモノ)の数字などと言われるが、本当は良い数字なのか!?

しかも、昔の距離の単位は㎞(キロメートル)やm(メートル)ではないので、“666”という数が現れるのは明治以降。

1里=約3.9272727㎞

1㎞=約0.254629629453里

6.66㎞=約1.6958333451里

三社で一つという考えは熊野信仰からきているとも言われている。
熊野と言えば修験道。そして八咫烏(三本足の烏)
この日本を影で支えているという噂もある。
熊野信仰・八咫烏と“666” 、何かの呪術か?

しかし、この氷川三社は縄文海進の頃、内陸まで海が入り込んでいた時の海岸線付近に位置しており、熊野信仰が成立する遥か昔、神社の前身である縄文祭祀場があったと考えられる場所。※1 益々不思議が増す。

そこで、縄文尺という距離の単位で見てみると・・・・・・、
(1縄文尺=約35㎝といわれている)

6.66㎞=約19000縄文尺。666と繋がらない・・・・・・。

だが、もし仮に1縄文尺が37㎝とすると・・・・・・、
6.66㎞=18000縄文尺!(18=6+6+6) でた!666の数字!
1縄文尺は37㎝だったりして・・・・・・。

縄文時代のアニミズムと熊野修験は繋がっているのだろうか?

も一つ“666”発見!
氷川神社参道のニノ鳥居から本殿までの距離、なんと666m!
氷川神社入口交差点(県道2号)からだと、神社の楼門と舞殿の中間辺りまでの距離が666m。
氷川神社入口交差点から参道を少し入ったところにある十四丁目(丁石)から拝殿まで666m。

〈丁石は神社に向かって参道を歩くと、その右側にあります。十八丁まであり、一ノ鳥居の辺りに一丁目の丁石、最後の十八丁目の丁石は三ノ鳥居のそばにあると思いきや結構離れた所=三ノ鳥居の約80m手前(ニノ鳥居側)にあります。〉

1町=109.0909m

666m=6.105町

ちなみに一の鳥居から三の鳥居まで約1.9㎞、三の鳥居から楼門まで約0.1㎞。


武蔵国一之宮氷川神社
(男体社)
(さいたま市大宮区高鼻町1-407)
グーグルマップ
大宮公園も明治初期までは
氷川神社の境内地でした。
氷川神社の辺りは縄文遺跡でもあり、
縄文時代の祭祀場跡が神社の元か?
レイラインは本殿を通過。
門客人神社は元 荒脛巾神社、
神池は見沼(御沼)の名残り、
蛇の池は御沼の水源。


中山神社(中氷川神社)
(簸王子社 ひおうじしゃ
(さいたま市見沼区中川143)
グーグルマップ
氷川神社(高鼻)の南東、
女體神社との間に鎮座。
ラインは、社殿こそ通過していないが
社地をかすっているようだ。
もちろん、ライン(線)を太めに設定すれば
(帯=ベルトとする)、ライン上となる。
氷川神社本殿から中山神社旧本殿まで
3.63㎞。ほぼ中間地点。
あと、300m西方にあったら
ド真ん中だったのですが・・・。
大昔は境内地がもっと
広かった可能性もある。
 氷川女體神社 ひかわにょたいじんじゃ
(女体社)
(さいたま市緑区宮本2-17-1)
グーグルマップ

祭祀場遺跡、参道、社殿(拝殿・本殿)を通る。

氷川神社本殿から氷川女體神社本殿まで
 ぴったり6.66㎞というのは不思議。

氷川神社レイラインの北西端と南西端

北西端は能登半島・石川県輪島市門前町北川から日本海へ抜け、南西端は千葉県九十九里町片貝海岸から太平洋へ抜ける。
氷川神社から南東のラインは冬至の頃の日の出の方角。
氷川神社から北西のラインは夏至の頃の日の入りの方角。


氷川神社レイラインも、鹿島神宮レイライン同様、構造線と絡んでいる。
特に埼玉県内においては、推定されている中央構造線と氷川神社レイラインは、かなり絡んでいるようにみえる。
氷川女體神社は、中央構造線が東へと進路を変えるポイントか?
また、氷川神社から千葉市の辺りまでは、柏崎-千葉構造線とも絡んでいるようにみえる。

そして、このラインは明らかに熊野修験との関わりが見てとれる。

氷川神社本殿を起点として南東端の千葉県九十九里町の片貝海岸まで約86㎞。
北西端の石川県輪島市門前町北川の海岸まで約299㎞。
端から端までの総距離約386㎞。

レイライン南東端の片貝海岸と北西側・富山湾に流れ出る片貝川の「片貝」つながりは偶然なのか?
北東方に向かって延びるような形の能登半島と、南西方に向かって延びるような形の房総半島が対照的に見えるのも面白い。

氷川神社レイラインの南東端は九十九里町の片貝海岸


千葉県山部郡九十九里町 (氷川神社レイライン南東端)
町の区画が氷川神社レイラインの向きと同じ。
氷川神社レイラインの向きは冬至の日の出の方角なので、この地域も同様に冬至の日の出の方角を意識して
区画を整理したのか?それとも氷川神社レイラインをも意識して作られた町なのか?
たまたま海岸線の向きが、冬至の日の出方向を向いていたため、海岸線に向かって垂直に道を敷いたら冬至の日の出方向になったのか?
九十九里町役場がレイラインに近いのは偶然か?
戦後の区画整理によるものだろうか?

九十九里の漁港は江戸時代に紀州(和歌山県)和歌山市加太(かだ)の漁民が開いたといわれる。
「片貝」という地名は「加太」からきているという説もある(「加太」の海=「加太海(かだかい→かたかい」⇒かたがい)。
氷川神社レイラインにおいて紀州と言えばスグに熊野=熊野修験が思い浮かんだのですが、和歌山市の加太と熊野三山では同じ紀州でも結構距離が離れている。はたしてどうなのかなと思いとりあえずネットで調べてみると、意外にもスグに加太と熊野修験の関係がヒットした。
なんと、加太の友ヶ島の序品窟(じょほんくつ)(👉グーグルマップ)は熊野修験葛城二十八宿修行の出発点だった!(葛城二十八宿は修験最古の道で、熊野古道もここから派生したという。)

ちなみに、九十九里のレイライン付近にある神社は大きな神社ではない。

氷川神社から片貝海岸まで約86㎞

氷川神社レイライン上にある気になるポイント


陸上自衛隊習志野演習場と獨協大学がもろにレイライン上。
氷川神社から獨協大学まで17㎞前後、陸上自衛隊習志野演習場まで46㎞前後。
片貝海岸から陸上自衛隊習志野演習場まで40㎞前後、獨協大学まで69㎞前後。

大土手山(ルボン山)もレイラインに絡んでいるといって良いと思う。
大土手山(ルボン山)は旧陸軍の砲兵射垜(ほうへいしゃだ:砲撃の的をかけておく築地)で、かつてこの辺りは軍の演習地であり、江戸期には佐倉藩の火薬場があったらしい。

貝塚の場所が氷川神社レイラインとほぼ平行に並んでいるのも気になる。
これらの貝塚を結ぶラインは、縄文時代の海岸線だろう。

氷川神社レイラインに重なるか沿ったかたちで柏崎-千葉構造線が通っていると思われる。
習志野市

陸上自衛隊習志野演習場はレイラインがもろに通過している。
かつては習志野原という地名で、明治の頃から旧陸軍の射撃場なんかがあった場所だ。
さらにその前、江戸期以前は広い原野だったという。
明治政府は氷川神社レイラインを知っての上で、ここに軍の施設を置いたのか?
氷川神社のパワーを得ているのかな?

ここからは氷川神社北西側のレイラインを見ていく。

さいたま市北区・西区

氷川神社北西側のレイライン付近には鎮守の氷川神社が多数ある。
こちら側の自衛隊施設はライン上ではないが、ラインに近い。
さいたま市西区高木の氷川神社(鎮守)の境内に祀られている杓文字様は 縄文石棒の可能性がある。
埼玉県東松山市の辺り

将軍塚古墳の北側を通る。将軍塚古墳は古墳時代前期(4世紀後半)の前方後円墳で、古墳時代前期においては埼玉県内最大の前方後円墳だったといわれる(行田市の埼玉古墳群より前に造られた古墳)。
後円墳側の頂上には藤原利仁を祀る利仁神社が鎮座。
この古墳の発掘調査は未だ行われていないようで、詳細は分かっていない。

レイライン上では無いがラインの北側に箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)がある。
箭弓稲荷神社は和銅五年(712)創建と伝わる古社で、拝殿・本殿は国指定重要文化財になっている。

氷川神社から将軍塚古墳まで約22.5㎞、箭弓稲荷神社まで約24.6㎞。
埼玉県大里郡寄居町の辺り

寄居町の市街地を抜け、鐘撞堂山西麓の円良田湖を抜ける。
氷川神社から寄居町役場まで約45㎞、円良田湖まで48㎞、鐘撞堂山まで約47㎞。
日帰り登山へGO! 鐘撞堂山のページ
寄居町から群馬県甘楽郡甘楽町にかけて(埼玉・群馬県境の辺り)
この辺りから氷川3社の辺りまで中央構造線が絡んでいると思われる。
御嶽山と武蔵国二ノ宮金鑚神社(埼玉県児玉郡神川町)

御嶽山山頂をもろに通過している。この山の北東麓には武蔵国二ノ宮である金鑚神社がある。
金鑚神社は拝殿のみで、その背後の山を御神体として祀る、古い神社形態が残る珍しい神社。
この形態の古社は奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)-三輪山、長野県諏訪市の諏訪大社上社-守屋山、そして当神社-御室山(御室ヶ嶽)の3社だけという。

金鑚神社も縄文時代の祭祀場・居住地跡か?

御嶽山南西方にある三波川流域は縄文石棒の生産地の一つとされ、神流川や荒川を利用し水運によって各地へ石棒を運んでいる。
この辺りで産出された石質の石棒が、遠く茨城県の鹿嶋からも出土している。
石棒のページ(日帰り登山へGO!)

氷川神社から御嶽山山頂まで58.3㎞、金鑚神社まで約58㎞。
御嶽山(金鑚神社)のページ(日帰り登山へGO!)

群馬県から長野県にかけて

群馬・長野県境の辺り

牛伏山の西麓を通り、熊野皇大神宮、小浅間山北麓、鬼押出岩、鳥居峠を通過。

氷川神社から牛伏山まで約67㎞、貫前神社(上野国一ノ宮)まで約79㎞、霧積山山頂まで100.1㎞、子持山山頂まで100㎞、熊野皇大神社まで101㎞、現碓氷峠までほぼ100㎞、小浅間山まで約110㎞、浅間山まで約113㎞。

氷川神社から見て夏至の頃の日の入りは浅間山の方角だ。縄文時代には氷川神社の辺りからも浅間山が見えていたと思われる。
夕日が浅間山山頂に沈む「ダイヤモンド浅間」が見えたかもしれない。
浅間山が煙をはいていたなら、そこに太陽が入っていくのを見てビビったかも知れない。
縄文人は現代人より視力が良かっただろうからよく見えてただろう。
縄文の頃の浅間山はどんな形をしていただろう。今より標高が高かっただろうな。
夜、炎が見えるくらいの噴火は厳かに見えたであろう。

鬼押出岩は天明三年(1783)浅間山天明大噴火の際の溶岩流跡。この大噴火で浅間山北麓の嬬恋村との間にあった村が壊滅している。
溶岩流跡は鬼押出し園で見ることが出来る。
👉 鬼押出し園 プリンスホテル公式ホームページ(外部リンク)

鬼押出し園そば・レイライン付近にあるキャンプ場
👉 ASAMA Park Field 浅間園オートキャンプ場 長野原町営浅間園公式ホームページ(外部リンク)

鳥居峠まで約127㎞、菅平湖まで約132㎞、その先には皆神山があるではないか(ラインから離れているが)!
熊野皇大神社

熊野皇大神社 くまのこうたいじんじゃ 〈長野県北佐久郡軽井沢町峠町1/群馬県安中市松井田峠〉
県境にまたがり鎮座する。神社名から分かるように熊野信仰の神社だ。
日本武尊が東征の帰路、道に迷った際、紀伊熊野の山中の梛(なぎ)の葉をくわえた八咫烏(三本足の烏)が道案内をし、無事峠にたどり着いたという伝説がある。

また、当地は旧碓氷峠旧中山道)でもある。

熊野皇大神社において、レイラインは境内の中心こそ通ってはいないが、レイライン上と言っても良いだろう。
社殿(長野・群馬県境上に本宮、長野県側に那智宮、群馬県側に新宮)の向きも、レイラインと同じ方角を向いている。

碓氷峠は3度移動しており※2、初め、古代の頃は現在地より南方約5.5㎞にある入山峠(18号バイパスが通る)にあったと推定されており、当時は碓氷坂とよばれ東山道が通っていた。神社も初めは碓氷坂にあったと思われる。

のち、鎌倉時代の頃(正応五年(1292)頃)、わざわざ険しいほうのルート(=当地を通過するルート)を中山道とし、その時に神社も遷したという。

もう、これは完全に氷川神社レイラインに合わせての場所移動だ!
険阻で不便なほうのルートに中山道を開き、その峠に神社を遷したのは、氷川神社レイラインが通っているからとしか思えない!

氷川神社と碓氷峠の「氷」つながりも気になる。峠には碓氷川の水源もあり、まさに「氷川」という字が入っている!
偶然なのか、意図的なのか?
「ひかわ」の「ひ」、「うすひ」の「ひ」。「ひ」=「日」。「日」とくれば日の出・日の入り、そして氷川神社レイライン!

しかも、氷川神社本殿から熊野皇大神社の各社殿(本宮・新宮・那智宮)まで、
101㎞!(ピッタリ) この数字に何か意味があるのか?
約101㎞ではなく、ぴったり101.00㎞というところが、意図的にこのポイントに社殿を置いた感じがする。
何か意味があるんじゃないかと勘ぐってしまう。
「里(り)」に換算すると約25.7里。これだと意味なんか何もないと思ってしまう数だ。
「㎞」と同じ距離単位のものが当時熊野の秘法?の中にあったのか?
偶然の数だとしても、それはそれでスゴイ偶然。

ちなみに1縄文尺=35㎝でみてみると288571.42・・・縄文尺。意味は無さそうな数列。
1縄文尺=37㎝でみてみると、272972.97・・・縄文尺。何とも言えない数列だ。

ただ単に縁起担ぎで氷川神社レイラインを利用しているとは思えない。いったいどんな呪術をかけているのか!?

レイラインは神社背後の一ノ字山を通り抜ける。

ちなみに熊野皇大神社の東にある子持山山頂は氷川神社本殿からピッタリ100㎞ だった。
こちらの山も何か重要なポイントなのだろうか?

100㎞=約25.46296里、約285714.28縄文尺、または約270270.27縄文尺。

👉 熊野皇大神社公式ホームページ(外部リンク)
 社紋は八咫烏。ホームページは個性的だ。

※2 碓氷峠(うすいとうげ)は3度移動している 


1⃣古代から中世初期碓氷坂と呼ばれ(当時は峠と呼ばれていない)、現在の入山峠(国道18号バイパス=碓氷バイパス)にあった。当時は東山道(古東山道)が通る。〈群馬県安中市松井田町入山/長野県北佐久郡軽井沢町長倉〉
また、入山峠には祭祀遺跡があり、縄文時代晩期から平安時代までの各時代それぞれの遺物が出土している。
氷川神社本殿から98.8㎞。

2⃣中世から近世(鎌倉期~明治初期)の碓氷峠中山道にあった。現在の旧碓氷峠旧中山道。熊野皇大神社のある峠。〈群馬県安中市松井田町峠/長野県北佐久郡軽井沢町峠町〉氷川神社本殿から100.9㎞。

3⃣明治十六年(1883)に国道18号が開通してからは、この国道の群馬・長野県境の峠が碓氷峠となる。〈群馬県安中市松井田町坂本/長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢〉 氷川神社本殿からほぼ100㎞(100.09㎞)。
これは氷川神社を軸にしているのが明らかだ。偶然では無いだろう。
この国道の建設にあたっても八咫烏が関与しているのか?

長野県から富山県にかけて


長野盆地(善光寺平ぜんこうじだいら)へと抜ける手前、レイライン付近に皆神山(みなかみやま)がある。この皆神山は有名なミステリースポットだ。山頂には皆神神社(熊野出速雄神社)が鎮座している。
まさか氷川神社レイラインがそばを通っていたとは!

その先、長野盆地へ入ると、上杉謙信と武田信玄が戦った川中島古戦場跡を通過(実際の戦場地はもう少し西の辺りらしい)。

川中島古戦場跡からほぼ真北には善光寺がある。その距離7~8㎞(計測地点によっては7.77㎞のゾロ目!)。善光寺や戸隠山は熊野修験と関わりがあることが知られている。

レイラインは長野盆地から再び山間部へと入って行く。
善光寺地震※3の震源域にあたる虫倉山の北側を通り、北アルプス北部の乗鞍岳と小蓮華山の間を抜け、海岸近くの低山・園家山(標高17.2m)の北側を通り富山湾へ出る(富山県下新川郡入善町)。
富山県入善町/黒部市の境を流れる黒部川は、レイラインの南側をラインに平行な形で流れ、富山湾に注いでいる。
また、その黒部川河口の南約6.7㎞に、片貝川河口がある。
レイライン南東端にある千葉県・片貝海岸との「片貝」つながりは偶然なのか?
調べてみると片貝川河口付近に熊野社が5社鎮座していた。
こちらの「片貝」もきっと熊野修験と関係あるな。
ちなみに、レイラインを挟んで反対側にも熊野社が5社鎮座している。

皆神山まで約145㎞、川中島古戦場跡まで約149㎞。
レイラインから離れるが、善光寺まで約153㎞、飯縄山まで約162㎞、戸隠山まで約170㎞。
阿弥陀山まで約185㎞、小蓮華山まで約191㎞、乗鞍岳まで約190㎞、園家山まで約226㎞、黒部川河口まで227㎞。
※3 善光寺地震:江戸時代後期の弘化四年(1847)、長野県北部で起きた大地震。M 7.4。震源域は長野市から飯山市にかけての広範囲に及ぶ。当日は善光寺の如来開帳で大勢の人が訪れていたため善光寺町の被害は甚大だった。全壊焼失家屋は約20,000戸で、総死者数は8,000人を超えた(善光寺領では約2,400人)。山崩れも多数箇所で発生し、犀川では川がせき止められ村が水没、その後せき止められた川が決壊し、流出・押理・潰家屋は3,000戸を超えた。

皆神山 (みなかみやま)


レイラインからは少し離れるが、皆神山があった!〈長野県長野市松代町〉
👉 皆神山 グーグルマップ
この皆神山は古くから信仰の山とされ、現在ではミステリースポットとしても知られる。

皆神山山頂部は3つの峰(東峰・中峰・西峰)から成り、中峰に皆神神社(熊野出速雄神社 くまのいずはやおじんじゃ)が鎮座、出速雄命(いずはやおのみこと)を祀る。
室町期、修験者大日寺和合院宥賢によって山内が整えられたと伝わり、古くから修験道の山として知られる。
👉 皆神神社公式ホームページ(外部リンク)

この皆神山とその東方に座す象山・舞鶴山の3山一帯には旧日本軍の大規模な地下壕があるといい、
太平洋戦争末期、日本の戦況次第で、この松代町に軍司令部(大本営)や天皇が移って来る予定があったという。
何故この地が選ばれたのか?これには八咫烏が関与していたのか?

現在、大本営が移って来る予定だった舞鶴山の地下には、気象庁の松代地震観測所が置かれている。
👉 松代地震観測所気象庁公式ホームページ)外部リンク

昭和40年(1965)8月には、皆神山を震源とする松代群発地震が発生している。奇妙な地震だったらしい。この地震で山体が隆起している。また、この地震による断層帯が、皆神山の北側をレイラインにほぼ平行に生じている。
そして、なんと現在も1日1回程度の無感地震が起きているという。

他、皆神山は日本のピラミッドとも呼ばれ、周辺ではUFOの目撃情報も多いという。

まさにミステリースポットだ!

氷川神社本宮から皆神山山頂まで144.9㎞、皆神山三角点のある西峰まで145.1㎞

ちなみに皆神山北東方にある奇妙山も熊野修験道場となっている。山名からして怪しい。
レイラインは奇妙山南腹にある清滝と、そのそばにある奥の院阿弥陀堂の辺りを通る。氷川神社から奇妙山まで約144㎞。
奇妙山の西方にある尼巌山(あまかざりやま)は山上部の南側をレイラインが通る。

長野市・長野盆地=善光寺平は東西南北各方面からの修験者(山伏)が集う地なのか?
善光寺はその中心地?

とりあえず、氷川神社レイラインは、確実に八咫烏の道でもあった!

レイラインは長野盆地(善光寺平)へ出ると、川中島古戦場跡を通過。👉 グーグルマップ(川中島古戦場跡)
【参考として】👉 善光寺公式ホームページ(外部リンク)

富山湾、能登半島抜けて日本海へ


氷川神社レイラインは、阿岸川と南側が合流した河口の北側から日本海に出る。
氷川神社本殿から観音崎まで約265㎞、能登島野崎町の野崎 大宮神社まで約267㎞、曲 大宮神社まで約273㎞。
能登鹿島まで281.7㎞、河内岳まで約289㎞、桑塚山まで約292㎞、輪島市門前町北川の海岸まで299.8㎞、ほぼ300㎞だ。
ちなみに輪島市役所まで約293㎞。
千葉県九十九里の片貝海岸から石川県輪島市北川の海岸まで386㎞。

門前町黒島町に福善寺、名願寺、永法寺という3つの違うお寺が並んで建っているのが気になった。
大きな寺ではなさそうだが、3寺とも氷川神社からジャスト300㎞。
門前町黒島町は北前船の船主・船頭の居住地として栄えたところらしい。松尾芭蕉も訪れているようだ。
松尾芭蕉は八咫烏?

この氷川神社レイラインの北西端にあたる輪島市門前町は、令和六年(2024)能登半島地震によって大被害を被った地域。4mも隆起した場所もある。
偶然だとは思うが、松代群発地震や善光寺地震とも絡んでいるようにも思える氷川神社レイラインの線上での地震なのが気になる。
レイライン付近は地震の影響が大きい=エネルギーがたくさん放出される場なのか?

氷川神社レイラインは太陽の動き(冬至・夏至)に合わせてひかれているが、構造線が絡んでいるのが不思議だ。太陽と大地が連動しているということか?


※1海が内陸まで入り込んでいた頃の氷川3社(奥東京湾)縄文海進


海抜+10mの海岸線。奥東京湾。比較的静かで浅い海だったという。
氷川3社はそれぞれ海沿いに鎮座(氷川神社の神池の辺りまで海が入り込んでいたと思われる)。
氷川神社から氷川女體神社まで6.66㎞というのはホントに不思議。

氷川3社以外の神社も、ほとんどが海沿い。

縄文海進の時代が終わり、今度は海水が引いて行く段階において(縄文海退)、この辺りは沼のようになったという。
地名の「見沼」は「御沼」で、「神の沼」というところからきている。

【日帰り登山へGO!】

氷川神社の狛犬

鹿島神宮レイライン(鹿島神宮-皇居-富士山-阿蘇山)

鹿島神宮レイライン(鹿島神宮真西ライン)

玉前神社-出雲大社レイライン


【外部リンク】👉地理院地図